小咄:ミシンの名前の由来

ミシン整備, 世間話

ジョン万次郎とミシン

 ジョン万次郎(ジョン まんじろう、1827年1 月27日〜1898年11月12日)がソーイングマシンをアメリカから持ち帰ったときに、誰かが『マシン』を『ミシン』と聞き間違えて、そのままその名前が定着したそうです。つまり【ミシン】とは日本以外では通用しない、りっぱな日本語なのです。

以下はジョン万次郎氏の生き様です。
wikipedia(ジョン万次郎)より抜粋しました。
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文政10年(1827年) – 土佐国中濱村(現在の高知県土佐清水市中浜)の貧しい漁師の次男に生まれた。死亡した父や病弱な母と兄に代わって幼い頃から働き、家族を養った。寺子屋に通う余裕が無かったため、読み書きも殆ど出来なかった。

天保12年(1841年) – 15歳の時に漁師の手伝いで漁に出て漁師仲間と共に嵐に遭難し、5日半の漂流後、奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島の鳥島に漂着して143日間生活した。そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助される。日本はその頃鎖国していたため、漂流者のうち年配の者達は寄港先のハワイで降ろされるが、船長のホイットフィールドに気に入られた万次郎は本人の希望からそのまま一緒に航海に出る。生まれて初めて世界地図を目にし、世界における日本の小ささに驚いた。この時、船名にちなみジョン・マン(John Mung)の愛称をアメリカ人からつけられた。

1859年に英会話書を出版し、藩校「教授館」の教授に任命されるが、やがて野に下された(役職を離れ庶民に戻る)。理由の一つには、もともと士分でない万次郎が、アメリカ人とも臆することなく対等に交友することをやっかむ者が多かったことも挙げられる。また当時、英語をまともに話せるのは万次郎一人だったため、ペリーとの通訳に適任とされたが、(オランダ語を介しての)通訳の立場を失うことを恐れた老中がスパイ疑惑を持ち出したため、結局ペリーの通訳の役目から下ろされたが、実際には日米和親条約の平和的締結に向け、陰ながら助言や進言をし尽力した。
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<2010年3月8日>
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